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近江幻想奇譚6.怪々勧誘

6.怪々勧誘


空にはまばらに雲が浮かぶ。

東の地平線が朱に色づき、上空の紺色がだんだんと薄らいでいく。

露に濡れた稲穂を横目に、自転車で走る。

家を出たのはまだ薄暗い日の出前。琵琶湖大橋取り付け道路を守山市街方向へ進み、カントリーエレベーターを右に曲がってメロン街道を草津市までひたすらまっすぐ進んだ。

田んぼ道は見晴らしがよく、東のかなたに見える三上山付近からまもなく太陽が顔を出すのが見えるだろう。

ここのところ残暑が厳しい日々が続いているけれど、この時間は風が涼しく、自転車をこぐにはもってこいの気候だった。

昨晩はいつもより短い睡眠になった。だけどわたしの目は冴えていて、これから出くわすであろう未知の世界に少しばかり緊張しているのは自覚していた。

時折後ろから来る自動車に追い抜かされながらも、前へ前へとこぎ進める。

学校に到着したころには、空はすっかり明るい水色に。

鍵が開いた状態の裏門を見て、引退した部活の朝練習を思い出した。
 
懐かしさを感じながら自転車を下りて重い鉄門をゆっくりとスライドさせる。

自転車が一台通れる隙間を作ってから、自転車を押して学校の敷地へと踏み入れた。

校舎には人の気配がない。駐輪場に自転車を止める時、校庭を歩く時――。自分の立てる物音がいつも以上に耳についた。

昇降口を通り、階段を上って3年5組の教室へ。

せめぎあう期待と不安。ほんの少しの好奇心。

いろんな感情で膨れ上がった心が、心臓の鼓動を早くする。

心なしか足の進みも速くなって、誘われるように私はたどり着いた教室のドアを開けた。
 



教室は建物の中にある四角く区切られた空間だ。窓はあるので外の景色を眺めることはできても、屋内独特の窮屈感は当然ながら自然と付きまとってくる。

しかし教室はそういった隔絶された空間であるからこそ、わたしたち生徒は授業に集中していられる。先生の声も、他のクラスの授業と混ざることなく生徒の元へ届けられるのも教室があってこそだ――と。

中学校3年の時の担任が、そんなことを言っていたのを思い出した。要は生徒はなぜ教室で勉強するのかという疑問から話を広げ、物事がそうなっている意味を深く考えてみれば違う見方ができて、どんな物事でも肯定的に捉えられるとかつての担任は結論付けていた。

当時はああなるほどそんな考え方もあるんだなと適当に聞き流していたけれど、今となってはかつての担任の価値観はわたしの考えとは相いれないものだとはっきり言える。

ふざけんなお前、だったら現在のわたしのクラスの、このぎすぎすした今にも窒息しそうな空気を肯定的に説明してみやがれ。といったふうに。

もうこの先顔を合わせるかも定かでない過去の記憶となった人にまで悪態をついてしまうぐらいに、2学期になってからの教室は窮屈だった。こもった空気に窒息しそうだった。

まともに話せる人がいなくなって、寂しかった。

クラスがおかしいと疑問に思ってしまう、自分のほうがおかしいのかもしれない。ずっとずっと不安に駆られていた。



それが、どうだろう。
 
踏み込んだ朝の教室は耳鳴りがしそうなくらい静かで、この四角い空間だけ時が止まってしまったかのように錯覚して、つられてわたしも思わず息を止めた。

机の配置、掲示物――。昨日と比べて目に見えて変わったものは何もないけれど。

ここは、この場所は、この空気は、昨日まで教室に立ち込めていたものと明らかに性質が変化していると全身が訴える。

一言でいうなら、開放感がすごい。
 
窓は全て閉め切ってあるのに、風が吹き去った後のようなすがすがしさだ。

まるで誰もいない朝の湖畔を散歩しているような。

だだっ広い芝生の上で、ひとり寝転んで伸びをしているような。

こんなの、9月以降の教室では考えられない。肺いっぱいに吸い込んだ空気が、とても軽く感じられた。
 
 
教室には、先客がいた。

すぐに分かった。昨日このクラスに来た転入生だ。きっと彼が三毛猫の言う「マサ」なのだろう。

黒板に背を預けてたたずむ彼は昨日と同様、校則違反の見本ともいえる身なりをして、わたしが教室に入ってからもずっと黙ったまま動こうともしない。

空気の変化に気を取られ彼に気付くのが遅れた私は、時間差によって生じた気まずさにこちらから話しかけるのをためらった。

教室の後方で立ち尽くすわたしと、前方で微動だにしない、彼。お互いが見つめあうだけの気まずい時間が続く。

悲しいことに、さっきまで感じていた開放感はあっけなく消え失せてしまった。
 
沈黙に沈黙で返すってどうよ。
 
……それはわたしもか。


結局、無言の空気に根負けしたのはわたしのほう。


「……えーっと、あなたがマサって人であってるのかな」


探るように告げれば、転入生は不機嫌そうに顔をしかめた。

 
「ああ? 昨日自己紹介しただろ。覚えてねえのか」

 
うっわこいつ、口も態度も最悪だ。
 
初対面の人だからと気を遣ってて損したよ。そっちが険悪に来るならわたしだって遠慮はしない。

 
「生憎昨日のわたしにはあんたの自己紹介なんて聞いている余裕はなかったからね。それもこれもすべてはお宅のペットとおぼしき猫が原因なんだけど」

「ペット?」

「ちっちゃい三毛猫のことよ。あんたがここにいる時点で、あの猫が見えてないなんて言わせないわよ」


強気に言い切っちゃったけど、この人が本当にあの猫の言っていた「マサ」という人なのか、本当は少し不安だった。
 
会話のキャッチボールがちぐはぐになってしまったら、適当にごまかしていったん教室から逃げたほうがいいのかもしれない。

 
「ああ、コノミのことか」

 
どうやらわたしの逃走計画実行されずに済むようだ。マサという男子生徒はすんなり納得して、軽くうなずいてみせた。


「コノミって、それが猫の幽霊の名前?」

「……あいつは幽霊ではないんだが。まあ、そういうことだな」

 
歯切れの悪さに引っ掛かりはしたけれど、詳しく追及するのはなんとなくはばかられた。

未知の現象に対する好奇心はある。三毛猫の正体についても知りたいと思っている。

けれど……。

それを知るというのは、わたしの知らない非日常な世界に片足を突っ込んでしまうことと同義で。そうなってしまったら、もう元の日常には戻れないかもしれない。それはちょっと怖い。

コノミとうい三毛猫のこと。

教室の空気のこと。

わたしはいったい、彼にどこまで聞いてもいいのだろうか。

そういえば、今日は猫のコノミさんはどこにいるのかな。

 
「西織 雅也。これが俺の名前だ」

 
足元を見渡してコノミさんを探していると、威圧的な声が降ってきた。

いつの間にか彼は黒板の前から離れ、わたしのほうへと歩み寄っくる。


「あ、えっと。笹木 ハルカ、です」
 
 
接近してくる西織くんに動揺しながらわたしもつられて名乗った。

改まった自己紹介がなんとなく気恥ずかしくてうつむき気味に視線をさまよわせていると、ふと彼の持つものに目を奪われた。

ゆるく握られた手から垂れ下がる、シルバーのチェーン。彼の掌の中で微かに光っている、あれは……?


「気になるのか?」


西織君が手にしていたものをこちらに向けた。

楕円のキーホルダー? いや、ペンダントトップだ。

象徴的な絵柄は何もない。アンティークゴールドの土台に薄く丸みを帯びたガラス取り付けられただけの、シンプルなもの。だけど、ガラスの中が水面が揺れるたびに不思議な輝きを放っている。

 
「あれ?」

 
白い虹のようなきれいな光に見とれていると、ペンダントトップの中に渦ができた。ぐにゃりととぐろを巻いて虹をゆがませたそれは、しばらくたつと消えてしまい、再びガラスの中には不思議な輝きだけが残される。

直観だった。

彼の持つペンダントトップから目を離し、教室中を見渡す。

見飽きるほどに確認し続けてきた、空間のゆがみともいえる教室にあったおかしな渦は今日ここに来てからは全く見ていないし、起こる気配すらない。


「コノミの言うとおり、見えてるんだな」

 
核心めいた言葉が耳に入り、我に返って西織くんと対峙する。

 
「見えていて、コノミの言葉が聞けて、影響を受けない体質か。確かに優良物件ではあるか」

「……ひとりで納得しないでほしいかなー。言っている意味が全く理解できないのだけどー」

 
びびっていることを悟らせまいと茶化すように言ってはみたけど、背中にいやな汗がつたう。


「知りたいか?」


心なしか、西織くんの声が弾んでいる。ひとが困っているのはそんなに楽しいか。

知りたい、とは思う。だけどこれって、踏み込んじゃったら戻れないタイプのやつじゃないか?

一歩。彼が距離を詰める分だけ、わたしは後ろへと距離をとる。

今になって怖気づくとか、相変わらずのヘタレっぷりにうんざりしなくもないけれど、やっぱり未来の平穏のために時には慎重になることも大事だよ。

ご利用は計画的に。用法用量は正しく守って――違う。そうじゃない。
 
 
「ちなみに知りたくないって言えば、わたしは今日ここに来なかったことにして見逃していただけるのでしょうか」

「んなわけねえだろ。今日この時間にお前が教室に来て、俺と会ったという事実はどうあがいても変えられねえよ」

「ですよねー」
 
 
やばい。この人わたしを逃がす気は絶対にない。

背中にかたいものが当たる。ロッカーだ。教室後方まで追い詰められた。

じわじわと距離を詰めてくる西織君は、わたしよりも頭半分ほど背が高く、楽しそう表情は愛嬌があるなと他人事のように思った。

うん。校則違反さえ気にしなけえれば茶色に染まった髪とか、ピアスとか、着崩したファッションとかもとても君に似合っているよ。

って、何現実逃避しているんだわたしは。そんなことより、焦っているわたしを前に、絶対この人楽しんでるよね。

Sだ。こいつはドSの属性だ。

顔を引きつらせるわたしを見下ろし、西織くんはとても胡散臭そうな笑顔を張り付けて口を開いた。

 
「疑問に思ってること、全部説明してやる。だからちょっと付き合えや、ハルカチャン?」
 
 
あ、これ、あかんやつや。

頭の中で警報が鳴り響く。とっさに教室のドアへと退路を求め足を動かそうとしたのだけど。

 
「おはよう」
 
 
教室と廊下のちょうど境目に、まるで逃げ道をふさぐかのように三毛猫のコノミさんが座っていた。

探している時には見つからないくせに、一番いてほしくない場面でちゃっかり現れやがった。

ぬかりねえなこいつ。



続く


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