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モノトーンの黒猫SS 肝試しのリスク

肝試しのリスク




バイト先のカフェの窓から見えるオレンジ色の空が、藍色に変わる。

糸のように細い月が小さいながらも主張を始めた上空は、雲一つなく晴れていた。

こんな街中じゃなければ、今夜はさぞかし星がきれいに見えただろう。

音楽が消えた閉店後。この静けさは嫌いじゃない。

雇い主の静さんが厨房で明日の仕込みをしている。厨房の小さな音を聞きながら、意識を窓の外へと向けた。

カウンター席の片隅に座るわたしの手元には、夏休みの課題である数学の問題集が置いてある。

――置いてあるとはいうものの。問題集のページは開けて筆記具も手の中にあれど、気力と集中力を勤務中に使い切ってしまったようで問題を解く気に全くなれないのが現状だ。

アルバイトが終わって、夕食を一緒にと約束した友人がここに来るまでの間。静さんのやさしさに甘える形で隙間時間を宿題にいそしもうとはしているのだけれど。さっきから設問に目を通すだけで瞼が重くなってしまう。

勤務後の程よい疲労感が眠気に拍車をかけてくる。

気持ちを切り替えようと窓を見上げては、鮮やかな空の色に魅入られて課題は意識の外へと追い出された。

潔く勉強は諦めて、分厚い冊子をそっと閉じた。

シャーペンをペンケースにしまう。視界の端で静さんがこちらを見ながら微笑んでいた。

「遅くなってごめんなさい」

約束の時間を10分ほど過ぎたころ。待ち合わせ人だったマヤが店のドアを開いた。

蒸し暑い外を急いで来たためか、店に入った彼女の額には汗が滲み、息が若干乱れている。

こちらを見てほっと一息ついたマヤはカバンから取り出したフェイスタオルで汗をぬぐう。

「こっちは大丈夫だけど、何かあったの?」

安心しきった表情に、どことなく引っ掛かりをおぼえた。そもそも彼女が時間に遅れるということ自体が珍しい。

少しだけ、困ったようにマヤが苦笑する。

「ここに来る途中、知り合いの人たちに会ってしまったの」

「知り合い?」

「お互い顔見知り程度の仲なのだけど、翔吾のことで、向こうはいろいろあるみたいで」

翔吾、というのはマヤの恋人の名前だ。彼は有名だったり人気だったり、それなりにハイスペックな男だから、いろいろというのは本当に、恋人であるマヤに対してはいろいろあるのだろう。主に、嫉妬とか。

「ちょうどいいからこれから遊びに行こうって誘われて、断るのにてこずってしまったわ」

「そんなにしつこかったんだ」

「翔吾や翔吾の友達も呼んでアークで遊んだ後、みんなで肝試しに行きましょう、ですって」

マヤは笑いながら言った。笑っているけど、苛立ちは全く隠そうともしていない。

「わたしに用事があるなら、翔吾達だけでも声をかけてくれないかって、そんな頼み事聞くわけがないでしょうに」

「うん。なんか、お疲れさま」

すごいな。もはや目的はマヤじゃなくて彼女の恋人と、恋人の友人たちだと、その人たちはマヤ自身に公言したということか。

「国道沿いの雑木林の奥に廃屋が出るとか。そこに行ってみたいけど怖いから男の人についてきてほしいって、わたしに言われても知らないわよほんとに」

「ああ、夏だからねえ」

同情しながらも適当に返しつつ、問題集とペンケースをトートバッグにしまう。

「災難だったわね」

厨房から出てきた静さんが氷水の入ったグラスをマヤに手渡した。

「あ、ありがとうございます」

「お疲れさま。少しゆっくりしてから行きましょうか」

大人の女性の余裕のある物腰につられ、マヤの苛立ちが凪いでいく。

少し恥ずかしそうにはにかんだマヤは、冷たい水を喉に通して肩の力を抜いた。

「それにしても、雑木林の奥の廃屋って、駅の向こうのところよね」

マヤがほっと一息ついている間、静さんは難しい表情で何かを思い出して口を開いた。

「ええ、多分そこだと思います。何か知ってるんですか?」

不安そうに聞き返したマヤに静さんが神妙な面持ちで頷く。

「マヤちゃんも結衣ちゃんも、あそこは行かないほうがいいわ。確かそこは、前に虎晴くんが質が悪いって言っていた場所よ」

虎晴くんは、静さんの旦那さんに当たる人のことだ。面白いことが大好きな、一癖も二癖もある厄介な性格をしているあの人が質が悪いと評価するとはとても珍しい。

というか、あの人って幽霊とか信じるタイプだったか。

「あそこ、建物に入ると全裸の男性が包丁持って追いかけてくるのですって」

なにそれ怖い。

「……男性、ですか?」

引きつった顔でマヤが静さんに聞く。きっとわたしもそう変わらない表情をしているのだろう。

マヤの持つグラスの中で、カランと氷が音を立てた。

「もともと、あそこは庭や建物周辺には手を付けていないだけで、建物の所有者は出入りしているらしいの。

その所有者のひとというのが、ちょっと悪いほうに変わっているみたい」

「だいぶんオブラートに包んだ言い方ですね。全裸で包丁って、変質者と言っては駄目なんですか?」

「でも、自分の家の中でどんな格好をしようがそれは自由よ。無断で人の家に侵入してきた者に、万が一を考えて武器を持って対応するのも、おかしいことではないでしょう?」

……確信犯か。

「もうずいぶん昔から、そうやって肝試しに来る人で楽しんでいるのですって。うわさが広まれば、ほとほりが冷めるまではその人自身も建物からいなくなる。

虎晴くんが高校生だった時からもう、あそこはあんな感じだったそうよ」

うわあ絶対に関わりたくない。

「建物に侵入しようと窓を割った人を訴えて裁判沙汰にしたり、立ち入った人に付きまとうこともあるらしいから。とにかくあそこに近づいては駄目よ」

世の中にはいろんな人がいるようだ。

静さんの旦那さんに「質が悪い」と評された人にほんの少しだけ関心もあるのだけど、これはわたしの胸の内にとどめておこう。これは明らかに興味本位で関わりを持ってはいけない人種だ。

「行きません。絶対に」

顔色をなくして頷くマヤに、静さんが苦笑する。

「危険な場所というのは、知っておいて損はないわ。あそこに行かなければ何も問題はないのだから。

さあ、そろそろ行きましょうか」

マヤからグラスを受け取った静さんが明るく言い放ち、厨房へと消える。

今日は静さんの旦那さんが、仕事仲間たちと一緒に飲みに行くので夜は不在らしい。

この機会にと、静さんは女子会名目でわたしとマヤを夕食に誘ってくれた。

3人で店を出て、静さんがドアに施錠する。

「この前虎晴くんと行ったお店がすごく美味しくて、ぜひふたりにも紹介したいと思ったの」

そう言う静さんのお勧めにははずれがない。今から料理が楽しみだ。

街路樹を揺らす夜風は心なしか涼しく、雲のない夜空にはちらほらとだけど微かに輝く星が見えた。



END


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