モノトーンの黒猫

モノトーンの黒猫 本編After「いわれ」3

—3

 

うつらうつらと水の底に漂っていた意識が一気に水面へと浮上する。

寝起きだというのに、目が覚めたと分かった瞬間には頭もしっかりと動いていた。外は依然暗いままだ。

人が活動するには早すぎる時間帯だけどベッドから起き上がる。

簡単に身支度を済ませ、マンションを後にした。

空気は冷たく肌に刺さった。吐く息は白い。

緩やかな下り坂。駆け足で進んでいると、前方に取り付けられたカゴいっぱいに新聞紙を積んだ原付バイクとすれ違った。

バイクのライトが通りすぎた途端、周囲は一段に暗くなる。

大きな通りでも走っている車はまばらで、交通量の少ない場所の歩行者信号は点灯していない。

静かな早朝に足音をならしながら柳さんの店、雨知らずまでたどり着く。

貰った合鍵を使い、音をたてないよう細心の注意を払いながら店のドアを開けた。

視界の悪い店内を手探りで進み、客席スペースの天井にある照明を付ける。

閑散とした店内は暖房がきれてから時間がたっていないのか、外よりも大分暖かかった。

人はいない。いつもは気にならない冷蔵庫の唸るような音が耳に付く。

柳さんは自宅に帰ったのだろうか。凍牙はきっと、厨房の奥にある部屋で眠っているはずだ。

コートを着たままカウンター席に座り、腕を枕代わりに顔を伏せた。

日が昇って、外が明るくなったら凍牙を起こして、一緒に日奈守へ行こう。

不安な気持ちに蓋をして、楽しいことを考えながら目を閉じる。

冷蔵庫の音に混じって、時計が秒針を刻む音がした。

ぶれのない1秒ごとのリズム。吸って、吐いてを繰り返すわたしの呼吸。

そのふたつに意識を向けていると、次第に体の力が抜けていった。

 

 

「人を起こしに来たはずの人間が、役目も果たさずこれはどうなんでしょうね」

「俺も来てみてびっくりだわ。飯作んのに音立てても目を覚ます気配が全くないしなあ」

 

凍牙と柳さんの声だ。夢を見るぐらいに寝てしまったか。

体はぬくぬくで、芯まで暖まっていて心地良かった。

まどろみの中で、くすくすと笑う女の人の声がした。

 

「疲れが溜まっていたのかもしれないわね」

「いつ起きるか賭けるか?」

「考えているうちに目を覚ますでしょう」

 

誰のこと? 何の話だ? その前に、話し声は頭ではなく耳から入ってきているぞ。

……違うか。これは現実で、凍牙と柳さんが近くにいるんだ。

そうだ。凍牙を起こさないといけない。

頭では分かっているのに、睡眠欲が勝って体が言うことを聞いてくれそうにない。

全身が暖かいお湯に浸っているようだ。ふわふわとした思考は、聴覚が伝える情報さえなければすぐにでも夢の中に舞い戻ってしまっただろう。

まだ動きたくないと、自分の理性に駄々をこねていた本能が、少しずつ性質を変えていく。どうやらずっとこうしてはいられないようだ。

首筋が痛みを訴え、肩がひどくこっている。自覚してしまえば、背中まで重く感じてきた。

同じ体制のまま寝続けるのは限界だ。

首を伸ばそうと伏せていた上体に力を入れる。頭が漬物石みたいに重い。

のっそりと時間をかけて体を起こすと、頭から背中へ、憑き物が落ちるように何かが下に滑る。

途端にほかほかとした空気が霧散した。肺いっぱいに吸い込んだ息は新鮮ではあったがやや冷たい。

 

「おはよ」

 

目の前で柳さんがカウンター越しに水の入ったグラスを差し出してくる。

何も考えずに受け取ったはいいが、この人ここで何をやってるのだろう。

店は今日、定休日ではないのか。

 

「お寝ぼけさんかしら」

 

カウンターの左隣に座っていた静さんがこちらに手を伸ばしてきた。

わたしの寝癖がついた前髪が優しい手つきで梳かされる。こめかみに軽く触れた手がくすぐったい。

右後ろから感じた気配に振り向くと、腰より下の高さで大きな物体がのっそり動く。

誰かと思えば凍牙か。

左隣に座っている凍牙は深くかがんで、床に落ちている毛布を回収していた。

……って、あれ?

 

「どうして、凍牙が活動しているのさ?」

 

これではわたしが店まで来た目的が達成されないではないか。

 

「……俺が動いていたら悪いのか」

 

げんなりとした顔で言い返されて、どういうことかと首をひねる。

手に盛ったグラスに目を落とし、次いで左の静さんと正面の柳さんを交互に見比べる。

柳さんの後ろにある、8時40分に差しかかろうとする時計を発見し、目線は時計と凍牙を往復するものに入れ替わった。

うん。やってしまったな。そして完全に寝ぼけてた。

 

「どうやら寝坊してしまったようです」

「見れば分かる」

 

呆れながらも凍牙は毛布を持ったまま席を立ち、厨房の奥の部屋に消えた。

すぐに戻った時には手ぶらだったと言うことは、あの毛布はわたしの上にかかっていたものらしい。

手厚い待遇のうえ放置じゃなくて、発見した時にここにいる誰でもいいから起こしてくれたらよかったのに。

 

 

柳さんの作ってくれたホットサンドを食べ終えて、凍牙とともに日奈守へと出かける。

定休日にも関わらず柳さんたちが店にいたのは、もうすぐ厨房の清掃を依頼した業者が来るからだとか。

換気扇や排水溝の中、冷蔵庫の細部など、定期的にプロに任せて掃除から殺菌消毒まで一日かけて作業が行われるらしい。

業者の仕事を一部始終監視するとまではいかないが、最初の顔見せと最後のチェックは店主の立ち合いが必要になってくる。

この店に清掃スタッフが到着した後、柳さんと静さんは今度カプリスのほうへ移動するようだ。

そういえば昨日カプリスで静さんがそんなことを言っていた気がしないでもない。わたしがすべきことは何もないからと、そこまで意識せず聞き流してしまっていた。

日奈守へ行く電車の中では幸運にも凍牙と隣同士で座ることができた。

凍牙は座席について早々に腕を組んで俯き眠り込んでしまっている。

ここで寝るぐらいならわたしが起こすまで寝ていれば……なんて思っただけで、さすがに理不尽すぎる言い分なので口にはしないでおく。

窓側の席で住宅の屋根が延々と続く景色を眺めていると、車両がカーブに差し掛かった。

遠心力に抵抗せず傾いた凍牙の肩がこちらに触れるも、本人は熟睡したままだ。

肩がぶつかっているだけで、わたし自身そこまで重くはないし負担にならないのでそのままにしているが、そもそも凍牙は昨日のいつ眠ったのか疑問になった。

柳さんの下で働き続けるというのは、一体どれだけの忍耐を強いられるのだろう。

誰かの寝顔がこんなに間近にあるなんてめったにない機会なので、ここぞとばかりに観察してみる。

大人びた人でも眠っている時はあどけなさが出てくる場合もあるなんて、誰が言ったんだ。

凍牙は寝顔は普通に凍牙の顔だった。ただ目を閉じているだけで、起きて活動している時と印象は全く変わらない。

むしろ眠っているかも怪しいぐらいに纏う空気はピリピリしていた。いや、こっちに体重を預けている時点で確実に眠ってはいるのだろうけど。

なんというか、今にも目を開けて毒を吐いてきそうだ。

まるで野生の獣だな、とひとり感心していると「次は日奈守――」というアナウンスが聞こえた。

熟睡していたと思われた凍牙はすっと目を開けて、軽くわたしにもたれかかっていた肩を離す。

見事なまでの覚醒具合がちょっと悔しい。少しぐらい寝ぼけてくれた方が可愛げがあるのに。

日奈守駅で降車し、改札を抜けてバス乗り場を目指す。

ロータリーの東側、4つある乗り場のうち最も駅の入り口から遠いところが港方面へと向かうバスが出るところになる。

バスはすでに停車していたが、出発までには5分以上の余裕があった。

エンジンが止まっている車内はすでに乗客であふれ、わずかな隙間を縫うようにわたしと凍牙は乗り込んだ。

人が密集していて、暖房がついてない、さらにはドアが開けっぱなしの車内でもそこまで寒いとは感じない。

バス側面に取り付けられたドアの向こうには、通りを挟んで4階建ての商業ビルが建っている。

ビルの正面にある巨大な円錐形のモニュメントは日奈守市民にとって待ち合わせ場所の定番だ。

よく晴れた今日は昼前ともあって、ビルの入り口近辺は人が多い。大多数を若者が占めるのは、冬休みも影響しているのだろう。

なんとなく人だかりを眺めていると、商業ビルの入り口付近の空気が微妙に変化する。

若干の緊張と興味、時に蔑むような雰囲気が人から人へと伝播していく。

原因はすぐに判明した。商業ビルから出てきた、ガラの悪い集団だ。

金、赤、茶色など、カラフルな髪がバスの中から見てもよく目立っているのだが、見た目からしてまだ若い。

わたしと同じ年か、もしかすると中学生かもしれない。

集団の規模は数えるまでもなく10人を軽く超えていて、遠慮もなく幅いっぱいに広がり歩道を行く彼らに周りも迷惑そうだった。

そんなチャラい系男子とギャル系女子が入り乱れる中、明らかに毛色の違う子が混ざっているのを発見し、思わず目を疑った。

佐智だ。

俯き気味で金髪女子に肩を押された佐智がつんのめる。近くにいた男子が佐智の肩に手を回して強引に集団の行く先へと誘ってゆく。

 

「……何やってんのさ」

 

どうしてわたしはこんなところで見つけてしまったのだ。あいつ、昨日はちゃんと家に帰ったのか。

ここからではあの集団に佐智が望んで付いているようには見えないが、これは気付かなかったことにしていい場面なのだろうか。

あの子がどんな状況に置かれているかも定かでないのに、余計な口出しをしに行くのも気が引けてしまう。

 

「どうした」

 

背後から凍牙の声が降り注ぐ。

振り返って見上げたわたしは、迷いながらも口を開いた。

 

「妹、あの中にいる」

 

凍牙がわたしの示す先を目で追う。

 

「道の向こうを歩いている頭の軽そうな連中か」

 

辛辣な評価だけど、実に分かりやすい表現だな。

 

「妹もそういうやつなのか?」

「違う。あの中でひとり浮いているのがそうなんだけど、様子がおかしいというか……」

 

佐智があそこに混ざりきって大衆を気にせず彼らと笑い合っていたのなら、わたしだってここまであれこれ考えなかっただろう。

趣味嗜好が知らないうちに変わったんだなと思うぐらいだ。

凍牙が言うところの頭の軽そうな集団は、駅に背を向けゆっくりと遠ざかっていく。

どうしよう。これは追いかけるべきなのか。

 

「さっきから何を迷ってんだ、お前は」

 

ため息をつきそうなぐらい呆れ返った様子で凍牙に言われ、うっとなった。全部見透かされている。

 

「妹が気になるんだろ?」

「……否定はできない」

 

ただ、わたしが首を突っ込んでも良いところなのか、判別がつきかねているのだ。

こちらは何もせず、涼君に目撃情報を伝えるのがひょっとして最善なのかもしれないし。

 

「そいつに対して負い目でもあるのか」

「いや、それはないんだけど」

「妹はお前にとって気を使うべき相手なのか」

「や、特には……」

 

うわあ。凍牙の目線が怖い。少し睨みが入っているのは気のせいではないはずだ。

 

「人の内情にずかずか断りもなく踏み込んで来るやつが、誰に対するどんな遠慮をみせて躊躇してやがるんだ」

 

言い返せずに黙り込んだわたしに、凍牙は白い目をしてため息をついた。

ためらうことに、大した理由なんてない。

佐智とのこじれた関係が悪化するのも、別に嫌だとかは思っていない。仕方がないと割り切れるぐらいには、わたしは妹に情がないのだ。

我ながら薄情な人間だ。わたしが気にしているのは佐智じゃなくて、佐智を心配する涼君や両親たちだとここでようやく自覚した。

 

「それで、そもそもお前は一体何に悩んでいるんだ?」

 

これは……、とんだ誘導尋問があったものだな。

 

 

続く


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