モノトーンの黒猫

モノトーンの黒猫 本編After「いわれ」0

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もの心がつくころには高瀬家の長男、涼君はその家に住んでいなかった。

わたしの中ではそれが普通だったし、大きいお兄ちゃんはたまにしか会えない。だけどとても優しい人だと幼少期より認識していた。

涼君はとても面倒見がいい。

両親が所用で家にいない時は決まって弟妹の世話をしに来てくれた。

涼君は、不平や不満を漏らさない。

だからわたしは涼君の生き方や生活に、何ひとつ疑問を持とうとしなかった。

 

 

「――じゃあ、高瀬さんちのお子さんは3人じゃなかったの?」

「そうなのよ。早くに家を出てしまってるけど、年の離れたお兄さんがひとり。今は大学生ですって」

 

小学校からの帰り道。一緒に帰っていた菜月とも別れて、後はここを曲がって少し行けば自分の家がある。

話し声が聞こえてきたのは、その時だった。

道路の曲がり角に建つ家は、ブロックの塀が身長より高くそびえ立つため向こうからはわたしの姿は見えていないはずだ。

 

「うそ。わたし、越して来て3年はたつけど、こんなに近くに住んでいて全く知らなかったわ」

「高校生になったと同時に、家を出てしまったみたいよ」

「寮のある高校に進学したかしらの?」

「それがね、高校も家から通えるところだったみたい。うちの息子も通っていた学校だから、ここからもそう遠くはないわ。なのに、家から出されたって――」

 

夕方の時間帯、ごみ置き場の前で近所の奥さんたちが井戸端会議をしているのは珍しいことではない。

平日で晴れた時には毎日ように見知った顔ぶれが3、4人集まっておしゃべりに興じている。

いつもなら軽く会釈をして前を通り過ぎるのだが、この日は内容が内容なだけに姿を見せるのをためらった。

人が聞き耳を立てているとは知らずに、彼女たちの話は弾む。

大人たちからしてみれば、中学を卒業したばかりだった涼君は保護者に庇護されるべき子どもであって、家から追い出した父の判断は非道な行為に当たるという。

当時、小学生のわたしにとって高校生は立派な大人で、涼君が家から出たことを「かわいそう」とは考えもしなかった。

たまに家に帰ってくる涼君が苦労を顔に出さなかったからかもしれない。

彼女たちの話は進む。

何の変哲もない閑静な住宅街の一角。少し変わった家庭環境の高瀬家は、ご近所の話題になることも少なくはなかった。

これは彼女たちにとって、ただの暇つぶしであり、近所づきあいの一環だ。

 

「――でも、自分の子どもの面倒も見きれないなら、高瀬さんもよそのとこの子どもなんて預からなければいいのに」

 

言った人にとってそれは正論で、悪意なんて微塵もありはしないのだろう。

世の中から高瀬家を見た時の、ひとつの意見に過ぎない。

その日、この話をたまたまわたしが聞いていた。ただそれだけだ。

そのころのわたしには、人の話を受け流すスキルがまだなかった。本当に、ただそれだけだった。

 

……うん。そうだね。

 

年の離れた頼れるお兄ちゃんにから、お母さんを奪ったのはわたしだ。

以来、心境が変化したのはわたしだけであって、たまに帰ってくるお兄ちゃんは相変わらず優しかった。

だけど自覚してしまえばもう遅い。

心の中に芽生えた罪悪感はどうやっても払拭できず、次第に彼の見せるなんともない笑顔にまで申し訳なさが募っていく。

気付いた時には、わたしは涼君のことを「お兄ちゃん」と呼べなくなっていた。

 

モノトーンの黒猫
本編After「いわれ」

 

わたしの知らないところでも、世界は常に動いている。

心構えなんて、している暇もない。

 

 

続く


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