モノトーンの黒猫

モノトーンの黒猫 間章「被り物を捨てる」4

被り物を捨てる 4

 

  ☆  ☆  ☆
 
 
 
翔吾が教室に乱入してくるという、羞恥と衝撃に見舞われた出来事から数日がたった。
 
あの後、昼休みの終了間際になってクラスへと戻ってきた結衣に、榎本君をはじめとした数人の男子が突っかかる場面もあったけど。結衣は彼らの文句をのらりくらりとかわし、自身も翔吾の忠告に賛同する旨を改めてクラスメイト達に伝えていた。それを目の当たりにしたわたしは再度赤面することとなる。
 
それから今に至るまで、わたしたちは穏やかな日々を過ごしている。
 
結衣のわたしやクラスメイトに対する態度に心配するようなところは見受けられない。だけど、彼女の行動には少し前にはなかった明らかな変化があった。
 
 
 
「これ、どうしたの?」
 
 
 
彼女の机の横にかけられたスーパーの袋の中に、外靴のローファーが入っているのにはすぐに気付いた。
 
 
「ああ、念のため用心しているだけ」
 
 
安いものじゃないからね、と。結衣は何でもないことのように言った。
 
下靴を昇降口の靴箱に置けない理由なんてひとつしか思いつかなくて、不安が募る。
 
結衣はなにも変わらない。困った顔ひとつ、見せようとしない。
 
 
「ごめんマヤ、予備のシャーペンを持ってたら、次の授業だけ貸してもらえないかな」
 
 
彼女がわたしを頼ってきたのは体育の授業後に教室へ帰って来た時だった。
 
 
「失くしたの?」
 
「どうだろう。次の授業が終わったら、一応更衣室は見てくるよ。なければ購買で買って来る」
 
 
見つかることを期待していない諦めが混ざる口調に、胸の奥に重い何かが圧し掛かるのを感じた。もしかして、わたしの知らないところで結衣は既に理不尽な目にあわされているのかもしれない。
 
思い至った嫌な予感は一日中消えなくて、翔吾と一緒にいる時や家に帰ってからも、不安が常に頭の片隅に付きまとった。
 
ただの杞憂であってほしいという願いは次の日の朝にあっさりと壊された。
 
翌朝登校すると、結衣の席に一輪のコスモスが花瓶に生けた状態で置かれていた。ひねりのないべたな嫌がらせに開いた口がふさがらない。
 
まだ予鈴までに十分な時間があるため教室には3人しか人はいない。先に来ていたクラスメイト達は気まずそうにわたしを見た後、あからさまに目をそらす。
 
きっとこれは、彼らの仕業ではないのでしょう。机に置かれた物は気になるけど、自らそれを処理するのは躊躇われる。
 
早くわたしにあれをどうにかしてほしい。そんな空気が流れていた。
 
 
「おはよう。どうしたの?」
 
 
背後の声にはっとする。登校してきた田所さんがドアの前に立ち尽くしていたわたしを避けながら教室に入ってきた。
 
 
「……ああ」
 
 
田所さんは結衣の席を見て納得するとすぐにカバンのポケットからスマホを取り出し、花入りの花瓶が置かれた机の写真を撮り出した。
 
 
「証拠は何かあった時に必要でしょ?」
 
 
見ていることしかできないわたしにそう言ってからスマホをしまった彼女は花瓶を手に取り、自然な動作で後ろのロッカーの上へと移動させる。
 
随分と手なれた動きだと思った。
 
 
「こういうこと、初めてじゃないの?」
 
 
こんなに早い時間に登校したのは久しぶりだったのだけど、もしかしたわたしや結衣本人も知らないところで被害は起きていたというの。
 
 
「ま、以前は頻繁にってわけじゃなかったけど、最近やたらと目立つようになった、かな」
 
 
田所さんはわたしから目をそらして花瓶を見つめる。
 
 
「いつも、田所さんがなにもなかったようにしてくれていたの?」
 
「うん。まあ、高瀬さんのためというよりも100パーセント自分のためによ。あんなもの、もし高瀬さんが見つけてしまった場合、どこに移動……というか、押し付けようとするか、なんとなく分かっちゃうのよね」
 
 
そう言いながら田所さんが視線を向けた先をわたしの目も追う。視線の先にあったのは教室前方、黒板の前の教卓。
 
確かに、結衣が素知らぬふりをしてあの場所に花瓶を置く様子はわたしにもありありと想像できた。そして、それを見つけて怒りをあらわにする、吉澤先生の姿も。
 
 
「面倒なとばっちりを回避できるなら、あれを置いた誰かさんの恨みぐらい買ってやるわよ。どうせ自分から面と向かって文句も言えない臆病者でしょう。まったく」
 
「……勇ましいわね」
 
「だいたい、高瀬さんも高瀬さんよ。周りを巻き込んで対象者に精神攻撃をかますやり方、本当にやめてほしいんだけど!」
 
 
それは、わたしに訴えられても……。
 
 
「結衣は、自分のことは自分で決めて動く人だから、わたしが言ってもどうにもならないわよ」
 
「そうかしら? むしろ津月さんのお願いだけは素直に聞いてくれそうな気がするけど」
 
 
もし本当にそうだったとしても、わたしは自分のためのお願いで結衣を縛るつもりはない。
 
胡乱気な田所さんには苦笑してこの件は曖昧にしておいた。
 
苛立ちと焦燥にかられる事態は続く。
 
その日、移動教室のあった授業から戻ってきたら、結衣の机がひっくり返った状態になっていた。
 
絶句するわたしや居心地悪そうにしている先に教室に入ったクラスメイト達を気にも留めず、結衣は自分で机を元に戻す。床に接していた天板が浮いた際、ひらりと2つの白い紙が床を滑った。
 
元はひとつの長方形だったものを裂いたであろう、一辺がいびつな切り口をしている4角形のそれを両方拾い上げ、裏返してみる。
 
 
「……なによ、これ」
 
 
紙の正体は写真だった。ぼやけてはいるが背景からして校庭で撮られたであろうそれは、制服を着た結衣の歩いている姿がぼんやりと中央に映っているのだけど。
 
写真はちょうど、結衣の首のところで、横に2つに裂かれていた。
 
 
「どうしたの」
 
 
教室の隅にまで移動させられていた椅子を結衣が回収して戻ってくる。
 
得体のしれない誰かの底知れぬ悪意に頭が真っ白になっていたわたしは反応が遅れた。
 
結衣は怪訝そうにしてわたしの手から写真を奪い、映った物を見てわずかに顔をしかめる。
 
そして無言のままゴミ箱の前に立ち、静かに写真を裂いて細切れにしていく。最終的に紙吹雪ができそうなくらい小さくなって、写真はそのままゴミ箱の中へと散っていった。
 
全てを済ませ席についた結衣がそばに立つわたしを見上げて苦笑する。
 
 
「さすがに、自分の写真は気持ち悪い」
 
 
声を潜めたのは、周りに聞かれたくない人がいるからか。
 
 
「あたりまえよ。あんなもの、腹が立って当然よ」
 
 
倣って小声で訴える。
 
だるそうに机に伏した結衣は腕を枕にして首をこちらに向け、どこか嬉しそうに目を細めた。
 
 
「うん。怒ってくれてありがとう」
 
「……あのねえ」
 
 
不意打ちすぎるお礼に毒気を抜かれ思わず机に手をついてしゃがみ込んでしまった。
 
 
「危機感はないの?」
 
「そこまで気にしなくていいよ。不快感を示したり憤りを表に出したら向こうが調子に乗るだけだし、やることがエスカレートしかねない」
 
「結衣が無視をしていても、やっていることがエスカレートしている気がするのだけど」
 
「確かに、ここのところ陰湿さに磨きがかかってきてる、のかな? くだらないまねしてないで、もっと別のことに青春を捧げた方が後々のいい思い出になるだろうに」
 
 
どこまでも他人事のような口ぶりだった。
 
前を見据えたまま、結衣は続ける。
 
 
「誰の仕業か、大方の見当は付いている。ある意味面倒な相手だし、もし相手がこちらに何かをしているのを見かけても、できればスルーしてほしい」
 
「わたしは、現場を見ても諫めてはいけないの?」
 
 
友人が被害にあっているのを無視しろというのは、たとえ本人の望みであっても納得できない。
 
 
「絶対に、とは言わないけど、可能な限りはお願いしたいかな」
 
 
起き上がった結衣は肩をすくめて自嘲する。
 
 
「世間一般の常識からして、自分のしていることはいけないものだと分かっているから、人の目に触れないようにいろいろしてくるのだろうけど。きっとこれをやってる本人は、自分の正義において悪いことをしているなんて微塵も思ってないよ。常識と正義は違うものだと認識していて、さらには自分の力では世間の大多数に敵わないことも理解している。そういう人間ほど、こっちが無理矢理表に引きずりだすと、脆すぎて別の問題を引き起こしかねない」
 
「ひょっとして、こういうことは初めてじゃないの?」
 
「まあね。わたしの男友達、本性はアレだけど見た目とスペックはいいやつが何人かいるから。やっかみは昔から日常茶飯事なんだよ。いつもなら嫉妬の元になった男どもになんとかしろと押し付けて終わりなんだけど、今回の元凶は柳さんだからなあ」
 
 
遠い目をして苦々しげに前髪をくしゃりと掴む姿に、少なからず同情をおぼえる。どうして彼女だけ、毎回こんな目に合わなければいけないのか。
 
 
「本当に、面倒臭い」
 
 
吐き捨てられた言葉は授業開始を知らせるチャイムと重なりかき消された。
 
 
 
翌日はいつもより1時間以上早く目が覚めた。再び眠る気にもなれず身支度を済ませ家を出る。
 
翔吾が今週は忙しいらしく寝泊りをアークでしているため、昨日と同様朝はひとりで学校へ向かう。
 
このままいけば朝のホームルームまでにかなりの時間ができてしまう。のんびり歩いても間に合うのに、足はいつもより早く動く。
 
昨日、結衣の机の上に置かれてあった花瓶が頭の中に浮かんでは消える。
 
今日はなにも起こらないでほしくて。なにも起こっていないところをこの目で確かめて安心したかった。
 
学校の敷地に入り、昇降口で靴を履き替え階段を上る。教室の方へと廊下を進めば、開かれたドアの先に今日もクラスメイトが数人先に来ているのが見えた。
 
あの人たちは一体何時から学校に来ているのかと感心しかけて、首をひねる。
 
何かしら。昨日とはどこか様子が違うみたい。
 
教室の中では女子生徒が3人、教壇の上でTシャツにハーフパンツ姿の女の子と話しこんでいる。遠くからでも分かる深刻そうな空気に、入室を躊躇する。
 
こんな時間だし、人が来るなんて想定していないのかもしれない。内々の話をしているなら、邪魔をするのも悪いし少し校内を散策してくるのもいいかもしれない――と。気を回しかけたちょうどその時、彼女たちの前にある黒板が目に入った。
 
そこに貼られた写真は大きさは違えど見たことがある。昨日、ひっくり返された結衣の机に挟まれていたもので間違いない。
 
A3サイズのコピー用紙に拡大された結衣の写真は、昨日と同じく首が切れるように裂かれていて、分離した2枚の紙は隙間を開けてマスキングテープで固定されていた。
 
 
「あ、津月さん!」
 
 
制服姿の女子のひとりが、こちらに気付いて呼びかけてくる。気のせいじゃなければ彼女はどこか、わたしが来たことにほっとしているように見えた。
 
無視するわけにもいかず教室の中へと入る。
 
 
「どういうことなの、これは」
 
 
声が震える。混乱していて上手く言葉が出て来ない。
 
 
「わたしたち、今日は朝練の日で、始まる前にカバン置きにここ来たのだけど、そしたら……」
 
 
言いにくそうに彼女はひとり運動着姿の女子生徒に目を向ける。
 
 
「……彼女が、これを貼っているところに出くわしたの?」
 
 
聞けば、気まずそうに頷かれた。
 
写真を貼ったとされるクラスメイトの女子について記憶をさかのぼる。彼女には今月の初めに結衣のことで相談を持ちかけられたけど。あれ以来接触もなく、お互いが関わらないことでこの問題は解決したのじゃなかったの。
 
もしかしわたしが知らなかっただけで、事態は終息していなかった――?
 
 
「……うん、でもね。この子の話聞いてたら、わたしらもどうしていいのか分からなくなって……」
 
 
難しい顔をして3人の女子は目を合わせて頷き合う。その間、加害者である彼女はうつむいたまま動かない。
 
どうして? 結衣に対してこんな仕打ちをする人に、ここにいる3人は同情的なの?
 
理解が追いつかない。
 
 
「ご、ごめん。わたしらもう朝練に行かないと。演奏会も近いし、遅刻したら怒られるから」
 
 
言うや否や、3人はこの場をわたしに任せて慌てた様子で教室を去ってしまった。
 
そこからしばらく、取り残されたわたしと彼女をどうすればいいのか分からず気まずい沈黙が続く。
 
やがて、しんとした教室に低い金管楽器の音が聞こえてきた。それを皮切りに校舎のそこかしこから学期の音が響きだす。
 
個々がばらばらに奏でた統一性のない音色はまるで今のわたしの心のようで、やりきれない気持ちのまま貼られた写真に手を付けた。
 
勢いに任せて首から下が写る大きい方の紙をむしり取り、驚愕に目を見開く。
 
紙の下には黒板に白のチョークで腰に手をあてポーズを決める女の裸が、結衣の首から上に繋がるように描かれていた。
 
頭が真っ白になった。
 
そういえば、田所さんが証拠はいざというときのためになるって言っていたっけ。
 
結衣はああ見えてうぶな一面があって性的なことは苦手にしていたっけ。
 
考えとしてはいろいろ出てきても、身体が頭について行ってくれない。
 
無心で全ての写真を黒板からはがし取り、跡形もなく裸体の落書きを黒板消しで強くこすって消し去る。
 
 
「……これも、あなたの先輩がやれと言ったの?」
 
 
写真をくしゃくしゃに手で握りつぶしながら問う。彼女はうつむきながらも小さく首肯した。
 
かっとなる自分を抑え、細く長く息を吐いて冷静でいるように言い聞かせる。
 
 
「吉澤先生に相談するわ。人に強制されてしてしまったとはいえ、さすがに度が過ぎる」
 
 
彼女が勢いよく顔を上げ焦りながらも口を開く。
 
 
「お願い止めて! 新人戦も近いのに、こんなことが先生に知られたらチームのみんなになんて言われるか分からない!」
 
「あなた、いつも自分のことばかりね」
 
 
思わずこぼれた本音に彼女の肩が跳ねた。次いで流れた大粒の涙がわたしをさらに白けさせる。
 
 
「部活、してない津月さんには分からないよ。チームメイトに嫌われたら、休憩時間やお弁当食べる時も独りになって、二人一組でする練習メニューじゃいつも余って誰も組んでくれないの」
 
 
随分具体的に語れるのね。とは、話がそれそうだから口にしないでおく。
 
 
「同じ部の人たちのの関係を良好にするためなら、あなたはそれ以外の場所で誰になにをしてもいいの?」
「そういうわけじゃないけど、でも、先輩の命令は逆らえないし」
 
だから仕方がないって言いたいの。
 
 
「それに、高瀬さんだって気にしてないみたいだし、津月さんが先生に言って、あえて大事にする必要はないと思うのだけど……?」
 
「結衣が平気だったら、あなたは結衣になにをしてもいいの?」
 
 
語気が荒くなるのを止められない。彼女は結衣を何だと思っているの。
 
あなたに、結衣を傷つけていい理由なんてどこにもないでしょうに。
 
 
「そういうわけじゃないよ! でも……、高瀬さん、強いし。……こんなことになった原因も、もともとは高瀬さんにあるわけだし」
 
 
最初は焦って否定してきたけど、続く言葉は言い訳じみていて。最後は後もごもと口の中で自分を肯定する言葉を呟き出す。
 
話にならない。わたしが彼女になにを言っても無駄なのだと思い知らされる。
 
結衣にできれば犯人はスルーしてほしいと言われていた理由を今更になって痛感した。成り行きで立ち入ってしまったけど、わたしは彼女と深く話すべきじゃなかった。
 
 
「……早朝練習、あなたもあるのでしょう? 早く行ったらどうかしら?」
 
「えっ」
 
 
不安そうにこちらの顔色をうがってくる彼女を目の当たりにし、わたし自身が結衣に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 
本当に、ごめんなさい。
 
 
「おはよーって、なに? 今日はどうしたの?」
 
 
田所さんが教室に入ってくる。続くように、数名のクラスメイトも登校してきた。
 
思う以上に時間は過ぎていたらしく、さっきまで聞こえていた吹奏楽部の楽器の音はいつの間にかなくなっていた。
 
 
「……部活、顔出してくるね。着替えも部室だから」
 
 
小さく伝えて、彼女は目線を下げたまま田所さんたちを避けて走り去る。
 
 
「なにあれ?」
 
 
事情を知らないクラスメイト達が困惑する中、わたしもどう答えるべきか迷い「なんでしょうね」とごまかすにとどめた。
 
握りつぶしたコピー用紙をゴミ箱の中へ叩きつけ、ひとりになりたくて教室を出る。
 
目の前で友人が傷つけられているというのになにもできない自分が情けなくて。
 
たどりついた空き教室でドアにもたれかかる。こんなことで泣いている自分が、何より許せなかった。
 
結衣が平然としているのに迷惑をかけるわけにはいかない。
 
激高した感情が鎮まるまで、ただひたすらに、時間が過ぎるのを待ち続けた。
 
 
 
もやもやした気持ちが晴れないまま、放課後を迎える。
 
彼女のことは午前中のうちに結衣にかいつまんで伝えておいた。同時にわたしが口出ししてしまったことを謝ったのだけど、結衣にはいつかのように、逆にわたしを巻き込んでしまったと申し訳なさそうにされてしまった。
 
昼休み、元気がないと翔吾にも心配をかけてまうし、今日のわたしは本当に情けない。
 
 
「……津月さん」
 
 
帰りのホームルームを終えて吉澤先生がいなくなった後、件の彼女がこちらの顔色を窺うように話しかけてきて、途端に苛立ちがこみ上げる。
 
 
「どうしよう」
 
 
自分は被害者だとでも言いたげな弱弱しい困り顔が、神経を逆なでする。
 
 
「先輩が、全然平気そうにしている高瀬さんに怒ってて、実はわたしが高瀬さんをかばっているんじゃないかって、冗談めかして疑ってきたの」
 
「……知らないわよそんなの」
 
 
それをわたしに打ち明ける意図が分からない。結衣を巻き込まない部活内の揉め事ならそっちで勝手にすればいいじゃない。
 
わたしに解決の糸口があると思われているのが癪に障る。
 
 
「ねえ、高瀬さんに、廊下を歩く時だけでも俯き気味にして、嘘でもいいから落ち込んでるみたいにしてもらえるように、津月さんから頼んでもらえないかな? じゃないとわたし、どうしようもなくって」
 
 
先輩という人の圧力に彼女が困っているのは知れた。だからといってきけるお願いではない。
 
結衣に嫌がらせをしておきながら、よくその口で厚かましく頼みごとができたわね。
 
おそらく先輩の命令というのは、彼女にとって免罪符のようなものなのでしょう。加害の理由にそれがある限りどんなことをしても心は罪悪感に押しつぶされない。
 
 
「わたしからは言えないわ。せめて自分で直接結衣に相談したらどうかしら」
 
「駄目よ! そんなの。無視しろって言われているのに、わたしから話しかけるのは……」
 
 
あれも駄目、これも駄目。だから嫌な役はあなたが代わりにお願いね? もうふざけるのもいい加減にしてほしい。
 
これ以上話していたら感情に任せて怒鳴りつけてしまいそう。もう無視して強引に下校してしまった方がいいのかもしれない。
 
 
「どこの誰? あんたの言う先輩とやらは」
 
 
苛立ちで周りに注意をはらえていなかった。
 
気がつけば結衣がわたしの隣に立ち冷めた目つきで彼女に告げていた。
 
 
「なんなら今からの部活にわたしもいっしょに行って、早速話を付けようか」
 
 
脅しじゃない。結衣は本気で行くつもりなのでしょう。
 
 
「止めてよ! そんなことされたら、後でなんて言われるか分からない」
 
 
ねえ、数秒前にあなたの言ったあれは嘘だったのかしら。
 
結衣を無視しろという先輩の命令は保身のためなら簡単に背けるみたいね。
 
 
「前に、わたしはマヤを巻き込むなと言った。忠告を破ったのはそっちだよ」
 
「だって……、どうしようもなかったんだもの。これは仕方のないことで……」
 
「そ。じゃあわたしが先輩とやらに直接文句を言いに行くのも、仕方のないことだよね」
 
「お願い止めて、部活には付いて来ないで!」
 
 
悲鳴に近い叫び声に一瞬教室が静まり返る。
 
我に返って口を抑えた彼女が居心地悪そうに首を垂れた。
 
 
「まあ、今日一緒に行かなくてもいいか。先輩とやらについても、別に教えてくれなくていいよ。部活は分かってるんだから」
 
 
後はこっちで勝手に調べると結衣は最後まで言わなかったけど。意図はしっかり彼女に伝わったみたい。
 
 
「わ、わたしの部活、2年の先輩は8人もいるんだよ?」
 
「だからなに? それはわたしがあなたの先輩に会いに行くのをやめる理由にはならない」
 
 
話は終わったとばかりに結衣が目の前で必死になる女子生徒に興味をなくし、わたしに顔を向けこてんと首をかしげた。
 
 
「今日、三國先輩は?」
 
 
結衣が翔吾を「彼氏さん」ではなく「三國先輩」と言ってくれた。場違いだと自覚していても嬉しさがこみ上げる。
 
 
「今週は皇龍の方が忙しいみたいで、朝と帰りはひとりなの」
 
「そっか。ならさ、マヤさえよければカプリスに寄って行かない? 静さんも会いたがっていたから」
 
 
楽しそうな誘いに一日中沈んでいた気分が浮上していく。
 
 
「いいの? じゃあご一緒させていただこうかしら」
 
 
呆然とする彼女を置いて帰り支度が済んだカバンを肩にかけた。
 
 
「ま、待ってよ! 分かった。わたしから、先輩に話してみるから。高瀬さんが直接行くのはもう少し待って!」
 
 
下校しようと教室のドアをくぐった結衣に、慌てて彼女がすがりつく。
 
 
「……今更かも、しれないけど」
 
「ほんとに今更だね。どうして今できることが、わたしの我慢が限界に達する前にできなかったの?」
 
「……ごめん」
 
「もうひとつ聞くけど、あなたが先輩とやらに話を付けた結果、わたしに対してちょっかいをかけてくるのがなくなる見込みはあるの? 言われるままにしか動けないあなたが、本当に先輩を止められるの?」
 
「……わからない」
 
「それじゃあ話にならない」
 
 
言い捨てる結衣の鮮やかさはさすがとしか言いようがない。どうしてわたしの場合、こうはいかないのかしら。
 
 
「待って! 駄目かもしれないけど、もう一度だけ、わたしにチャンスを下さい! お願いします!」
 
 
追いすがって腕に絡みつかれ結衣がうっとうしそうに振り返る。
 
 
「ああもう。そこまで言うなら好きにすればいいんじゃないの」
 
 
投げやり気味に言い放たれた言葉に一縷の希望を見出し、彼女の顔がぱっと明るくなった。
 
 
「そうだね。もしあなたが先輩を止められなかったときは、あなたの口から先輩に、わたしの伝言を伝えてもらっていいかな」
 
 
彼女は結衣の腕を放してほっとした笑みを浮かべる。
 
 
「うん、いいよ。それぐらいなら」
 
 
あなた今、自分が言った先輩を説得するという話を忘れているんじゃないでしょうね。
 
結衣がいるならと傍観者に徹していたけど、呆れて開いた口がふさがらない。
 
 
「あなたが先輩にどういう話をするのかに興味はないから、伝言の内容は先に伝えておくね。これを伝えなければならない結果になるかどうかは、自分次第だと思っておいて」
 
「うん。分かった」
 
 
了承を得て、結衣は何かを思い出すように虚空を見上げて口を開く。
 
 
「これ以上、こちらに手を出して来るな。従わなければあんたの後輩を学校に来れなくする。――以上。じゃあよろしくね」
 
「……へ? なにそれ? 待ってよ、なんで……、どうして?」
 
 
目を丸くしてうろたえる彼女を前にして結衣は面倒臭そうに息を吐いた。すがるように見つめられても、一切変更の余地はないと結衣の揺るがない目が言っている。
 
 
「そんなの、おかしい。……なんでわたしが」
 
「――なんで自分がそんな目に合わなきゃいけない? ――って言いたいの?」
 
 
言葉尻をとって続けた結衣に彼女が悔しそうに歯を食いしばる
 
そんな彼女を結衣は鼻で笑った。
 
 
「それ、わたしの言葉として同じことをあなたに言わせてもらおうか。なんでわたしが私物を盗られて机に落書きされて、盗撮された挙句に写真を裂かれて――。ねえ、どうしてわたしが、こんな目に合わなきゃいけないの?」
 
 
口調を荒げて脅しているわけじゃない。大声で相手の言葉をかき消し押し黙らせているわけでもない。だけど結衣の口から放たれた声には言いようのない威圧感がある。
 
 
「まあ頑張って。一応、あなたが先輩に話を付けてくれるというのには、期待してるよ」
 
 
……口先だけとは言ったものね。全く頼りになどしてないでしょうに。
 
顔面蒼白になって悲壮感を漂わせる彼女を置いて、わたしと結衣は校舎を後にした。
 
 
「もういいよ。なんか吹っ切れた」
 
 
カプリスへの道すがら結衣がこぼす。
 
 
「まったく。あの人も、現場を他人に見られるようなへまをするんじゃないよ」
 
 
ぼそりと呟かれた文句には思うところが多々あったけど、今は笑って流しておくとする。
 
 
 
 
これで万事が元通りとはいかなくても結衣の周りが静かになるならよかった。
 
そうして胸をなでおろしていたのは、どうやらわたしひとりだけだったみたい。
 
次の日にはもう、燻った火種をわたしも目の当たりにすることとなる。
 
災難の火は鎮火しきれないまま、時間だけが過ぎていく。
 
結衣が放課後、彼女と放した次の日。そして、さらにその翌日も。
 
件の彼女は、学校を休んだ。
 
 
 
 
  ☆  ☆  ☆

続く


BACK  TOP  NEXT 
Loadingこのページに「しおり」をはさむ