モノトーンの黒猫

モノトーンの黒猫 皇龍編上3‐1

3-1

 

 

空気は時として毒になる。
 
目には見えず、人体に影響のないこの毒は、じわじわと人の心を蝕んでいく。
 
張り詰めた緊張感や、一目瞭然の敵愾心なら毒とは言えない。
 
例えるなら、月日によって脆くなった縄が左右に張られた状態。
 
少しずつ、本当に少しずつ、縄の繊維が切れて行くのを見続けるようなじれったい感じ。
 
そんな空気が今、1年4組の教室を覆っている。
 
一見するとみんなが普段通りに過ごしているのだが、どうしても違和感が拭い去れない。
 
気持ち悪いもやもやが胸に溜まる。この感覚はものすごく苦手だ。
 
 
――わたし、翔吾と別れたから。
 
 
毒となり得るおかしな空気がクラスを包み込んだその日、マヤはわたしにそう言った。
 
 
 
 
大型連休が明けた2日目、マヤが学校を休んだ。
 
「津月はどうしたか知っている奴はいるか?」
 
朝のホームルームで吉澤先生がクラス全体に聞いたので。
 
「お腹が痛いから朝は行けないとのことです。大丈夫になったら来るそうですが、今日はどうなるか分からないって言ってました」
 
ここは適当に報告しておいた。
 
先生は眉間にしわを作ったが、最終的には「そうか」の一言で用件は終了する。
 
見るからに怪しんでいる様子だったが、深く追求してこないなら良しとしよう。
 
一カ月もたてば先生の威圧感にもそれなりに慣れた。
 
これぐらいは自然に流せる。
 
何のこともなく吉澤先生に言ってのけたわたしに、クラスの見た目やんちゃ組がぎょっとした。わたしとしてはこっちの反応のほうがびっくりするよ。
 
そんなにあの先生が怖いか。
 
マヤが不在だからといってわたしの学校生活で何かが変わるというわけもなく、一日はいつも通りに過ぎて行った。
 
あえてひとつ変化を挙げるとするならば、体育の授業のストレッチで、二人一組に余ったわたしは先生と組んだ。その時に「体が柔らかい」と褒められたくらいだ。
 
本当に、確認できる変化なんてなかった。
 
放課後はいつも通りバイトに行く。
 
挨拶をする相手もいないので、さっさと下校しようとしたところ、いつかのように原田さんに呼び止められた。
 
「高瀬さん、今日は」
 
「バイト」
 
「またぁ? 高瀬さんって週何でバイトしてるの?」
 
「だいたい週6日で時々休み、かな」
 
嘘は言ってない。
 
「へ、へぇ」
 
原田さんは若干引き気味だった。
 
彼女が気を取り直した時、わたしに向かう態度に微かな変化があったのは見逃さない。ランク付け、されたかな。同情がこもったような眼差しの奥に、自分の優位を確信したような愉悦を原田さんが抱いているのを察する。
 
どうせ勝手にわたしの家庭内事情を想像したのだろう。どうでもいいことだから好きにすればいいよ。
 
「高瀬さんはさぁ、津月さんのことどう思ってるの?」
 
「……どうって?」
 
話題を変えてきたけれど、結局はこれが本題なのだろう。
 
こっちはさっさと話を切り上げたいのだが。
 
「みんな言ってるよ。三國さんの幼馴染だからって調子に乗りすぎてるって。ゆっちぃなんかさぁ、この前ブスは三國さんの背景でも目障りだって、爆笑してたし」
 
楽しそうに話すには、内容が陰湿だ。
 
そして、一方的に告げられる言葉に彼女のずるさを垣間見る。
 
みんなとか、誰かは知らないがゆっちぃという人の話として、人をけなし、自分の意見としては何一つ負の言葉を言おうとしない。
 
いざというとき、「自分は言ってない」で逃げられる道を確保している。
防衛術かもしれないが、これはずるい。
 
相槌を打ったらわたしも「そう思っている」人間の仲間入りか。
 
「よく分からないけど、わたしとマヤはクラスで一緒にいるだけだから。じゃ、バイトに行くね」
 
バイバイとは言わず、教室を飛び出す。
 
この一カ月で「お互いに都合のいい関係」から、わたしにとってのマヤの立ち位置は少しだけ親密なほうへと移動している。
 
原田さんの発言が少々不快に感じたのはその為だ。
 
マヤが今日学校を休んだ本当の理由は知らないけれど。何もなければいいと、そう思わずにはいられなかった。
 
 
次の日、教室に入ったときにはマヤはすでに席に座っていた。
 
本鈴と同時にクラスに着いたわたしは、席にカバンを置く間もなくマヤの元へと向かう。
 
「おはよ」
 
うつむいていたマヤが顔を上げる。
 
腫れた目元。
 
マヤは泣き明かしたひどい顔をしていたが、そこを心配するには時間がない。
 
「休み、腹痛ってことになってるから」
 
「えっ?」
 
訳が分からないと言いたげだが、説明する間もなく吉澤先生がクラスに入ってきた。
 
急いで自分の席へと移動する。
 
「ホームルーム始めるぞ」
 
だるそうな先生の声に、クラスがしんと静かになった。
 
出席を取り終えた先生がマヤを見る。
 
「津月、体調はもういいのか?」
 
「はっ、はい」
 
「ならいい。次からは生徒に伝言を頼まずに、直接学校に連絡を入れるようにしろ」
 
「……はい」
 
いきなり話を振られて焦ったようだったが、危機は脱した。
 
無断欠席には連絡を入れた欠席と違い反省文の罰則が出る。
 
欠席した理由から始まり、今後はどうしていくかを起承転結でレポート用紙にまとめて提出しなければならない。
 
反省文の長さに決まりはないが、担任のお許しが出ない限りは延々とやり直しをさせられるらしい。
 
さらに言えばこのクラスの担任吉澤先生。
 
慈悲なんて微塵も持ち合わせていないので、先生の気が済むまでやり直しは容赦なく続く。
 
マヤの欠席に理由をつけたのはこのためだ。
 
「ありがとう、反省文は免れたわ」
 
ショートホームルームが終わって、マヤがわたしの席に来た。
 
雰囲気が暗い。
 
何かがあったのだとはすぐに分かった。
 
だからといって、本人がよしとしないところに踏み込むのもためらわれる。
 
「2回も使える手じゃないから。次からはちゃんと学校に連絡しようね」
 
気付かないふりが、わたしたちの距離では無難か。
 
「ええ。気をつけるわ。……あのね」
 
わたしが立ち入ろうとしなかった場所のことは、マヤが自分から教えてくれた。
 
「わたし、翔吾と別れたから……っ」
 
小声で言われた言葉。
 
マヤの瞳に涙が溜まる。
 
「……そっか」
 
慰めの言葉はなく、口を閉ざした。
 
視界の中心にマヤを置いたまま、周囲を観察する。
 
クラス内は自然を装っていたが、マヤを見る目はそれなりにあった。
 
茶髪、金髪のやんちゃ系男子は、どこにいるのも心配そうにマヤを気にしている。
 
他にも。
 
前の席の廊下側にいるのは――――、原田さんのいる集団だ。
 
5、6人の女子がちらちらとこっちを見ては、楽しそうに盛り上がる。
 
言いようのない不快な感覚に、胸の奥が疼く。
 
「……1限目、さぼろっか?」
 
今にも泣きそうなマヤは、それでも笑って首を横に振った。
 
「昨日さんざん泣いたから。もう大丈夫」
 
全く大丈夫には見えないのは、伏せておくべきなのだろう。
 
席に戻ったマヤの後姿は、わたしの席からでも分かるぐらいに沈んでいた。
 
マヤは、慰めてほしくてわたしに恋人と別れたことを言ったんじゃない。
 
これは、わたしに対するただの「報告」だ。
 
昼の弁当は恋人と食べるから、わたしと一緒には食べれない。それを伝えられた時と同じ。
 
高校の、クラスで共に過ごすにあたって、最低限必要な情報交換をしたまで。
 
わたしたちはお互いにとって利害の一致した都合のいい存在で、曖昧な関係は慰め合うということを互いに拒絶している。
 
適度だと思っていた心の距離感が、ほんの少しじれったく感じた。
 
 
「お昼、どうする?」
 
「教室で食べるわ。わざわざ移動するのも面倒だし」
 
「そう」
 
「あ、結衣は食べたいところがあるなら行ってきてね。こんなことで気を使う必要ないから」
 
という会話がなされたのは4限目が終わってすぐだ。
 
ひとりになったから一緒に食べようとは、マヤは言わなかった。
 
それがどれだけ都合のいい話なのかを、理解してしまっているのだろう。
 
ただ、少しは頼ってほしいとも思えてしまうのは、自分の良心から来るものかと考えたり……。
 
……なんというか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 
ひとまずはっきりしているのは、クラスの空気が明らかに変わったということ。
 
誰もなにも言わない。
 
しかし多かれ少なかれ、クラスのほとんどがマヤを気にして意識に入れている。
 
心配であったり、好奇心であったり、理由はそれぞれなのだろうが。
 
三國翔吾という男の影響力を実感させられる。マヤにとってこの別れは不本意だったとは見ていて分かるが、三國翔吾からしてはどうなのだろう。
 
気にしてしまうぐらいに、あのクラスの空気が嫌で嫌で仕方がない。
 
「どうしたものか」
 
呟きはただのひとりごと。
 
第二体育館に、凍牙は来ていない。
 
弁当を食べ終えて思案に暮れていたのだが、あまりいい策が浮かばない。
 
最終的にわたし自身がどうしたいのかがはっきりしていないからだろう。
 
さらには現状打破のための情報がそろっていない。
 
そして情報を収集してまで何かしたいことがあるのかも不明瞭だし、結論はひとまず様子見で終わってしまう。
 
結局はわたしも傍観者なのだ。
 
 
 
 
 
続く

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